エメラルド・フェネルの長編デビュー作『プロミシング・ヤング・ウーマン』は、近年のハリウッドで最も議論を呼んだ復讐映画でありながら、“復讐譚”という枠組みそのものを巧妙に裏切る一作。タイトルが示す皮肉、色彩設計に隠されたメッセージ、そしてキャリー・マリガンの静かに燃える演技——表層はポップで軽やかなのに、観客の心に残る後味はビターに。
本作は「女性にとって安全とは何か」「正義は誰によって定義されるのか」というテーマを、快楽とサスペンスを掛け合わせながら描かれます。
本記事では、『プロミシング・ヤング・ウーマン』をネタバレありで紹介します。
作品情報
| タイトル | プロミシング・ヤング・ウーマン |
|---|---|
| 原題 | Promising Young Women |
| 製作年/国 | 2020年/イギリス・アメリカ |
| 上映時間 | 113分(1時間53分) |
| ジャンル | クライム/スリラー |
| 監督 | エメラルド・フェネル |
| 脚本 | エメラルド・フェネル |
| キャスト | キャリー・マリガン ボー・バーナム アダム・フロディ レイ・ニコルソン サム・リチャードソン スティーヴ・モンロー 他 |
予告動画
あらすじ
かつてキャシー(キャリー・マリガン)は、誰もが将来を嘱望する“プロミシング・ヤング・ウーマン(明るい未来が約束された若い女性)”だった。優秀な成績を誇り、医学生として輝かしい道を歩むはずだった彼女。
しかし、ある悲劇的な事件が彼女の人生を一変させる。その日を境に、キャシーの前途は奪われ、夢も友情も信頼も音を立てて崩れ落ちた。
現在の彼女は、郊外のカフェで働きながら、どこか空虚な日々を送っているように見える。だがその裏では、冷静で緻密な頭脳と鋭い洞察力を武器に、“もうひとつの顔”を生きていた。夜になると彼女は街に出て、ある目的のために行動を起こす。誰も知らないその行動の意味とは? そして、キャシーが抱える復讐の炎は、どこへ向かって燃え広がっていくのか――。
ここからはネタバレを含んだ内容となります。ご留意の上、ご覧ください。
ネタバレ・感想
腐った社会へのアンチテーゼ

「男なんだから泣くな」
「女なんだから子供を産むのが当然」
こんな謳い文句はいくらでもあります。これらは一見、昔の価値観と思われがちですが、今でも無意識に使われていることが多々あります。問題なのは、これらを使う場面が「そうありたい」といった目標や憧れではなく、「こうあるべき」といった役割に限定されてしまっていること。
今となっては当たり前のようにご存じと思いますが、現代社会はこの濃霧と言わんばかりに立ち込めているジェンダーバイアスにメスを入れ、これまで男性優位とされてきた社会構造を、性別関係なく女性も男性と同じ目線で活躍できる「女性の社会進出」をスローガンのひとつに掲げています。ただ、そんな言葉はある側面ではただの独り歩き。社会が女性に対して押し付けている期待と、それが思い通りにならなかった時に簡単に裏切られる構造が看過されていることも。
作中の被害者であるニーナがまさにそれ。勉学もトップクラスで周囲から将来有望とささやかれてきたニーナへの期待とは裏腹に、彼女が事件に巻き込まれた時には誰も手を差し伸べない。一方、加害者の男たちが窮地に追い込まれたときには、「婚約者がいる」「仕事を続けられなくなる」など、まるで社会的地位を盾にでもするかのようにキャシーの目の前を覆いかぶせる。
「社会は男性を守っても、女性は守らない」
感情を蓋を抑えようとしても、はらわたが文字通り煮えくり返って溢れ出るほど。
口が悪くてスミマセン、本当にクソったれです。
監督「エメラルド・フェネル」ってどんな人?
こんなセンシティブで難儀なテーマを、復讐劇でありつつもポップでパンチのある作品に仕上げているのは監督「エメラルド・フェネル」です。
Wikipediaで検索すれば経歴は詳しすぎる程に載っていますが、ざっくり言うと脚本・俳優・監督もできる「何でもできる人」。ちなみに、この『プロミシング・ヤング・ウーマン』が長編映画のデビュー作で、アカデミー賞の脚本賞を受賞しています。元々は俳優として活動していて、その中で脚本を担当した『Killing Eve(キリング・イヴ)』シーズン2で評価を得たのちに、本作に取り掛かっています。
デビュー作にこのテーマを持ってきて、さらに二作目の『ソルトバーン』では人間の闇や欲望をブラックコメディ風に仕上げています。個人的には、俳優業の最中で感じたもの・出来事がかなり濃く、メッセージ性を持って監督業にも取り組んでいるのかなと推測してしまいます。
蛇足でした。
越えられない一線

作品の内容に戻ります。
作品の中でも印象的だったのが、このシーン。
このシーンは、キャシーが車道に車を停止させて放心状態になっていたところ、車で通りがかった男性に「邪魔だ」と他にも罵詈雑言を浴びさせられて、手に持ってるバールで男性が乗っている車をボコボコにしたシーン。なぜキャシーが放心状態だったかと言うと、このシーンの前に、キャシーは学生時代に知り合いだった男性のライアンとデート帰りに家に誘われたからです。
キャシーはこれまでそういった「お持ち帰り」をする男性へ悉く制裁を下していました。そんな中でも、ライアンは何度も職場のカフェの足を運んでくれて、熱心に自分へアプローチをしてくれて、一緒に居ても気が楽で、自然と気の合う男性になって。ただ、そんな過程でデート帰りに家に誘われることに。ライアンは気が付いてその誘いは間違いだったとキャシーに伝えるも、時すでに遅し。そのシーンのキャシーの表情を見れば一発で分かりますが、完全にこれまでのクズ男たちを見るかのような表情でライアンを文字通り見下す。解散した後にはゴミ箱を足の裏で蹴り飛ばすほどに。
そんなこんなで車道で停止した車内で放心状態になっているところ、また別のクズ男が、女はあれやこれやと言ってきて、このシーンに。ここで印象的だったのが、道路の中央線。キャシーが放心状態で車内にいた時は、この中央線の左側にいました。そして、暴言を吐いてくる男は中央線を跨いで右側に停車。中央線から左側にいる時は、放心状態ながらも昨日のことを思い悩んでいる様子。そこから暴言を吐かれ、キャシーは中央線を跨いだ右側で仕返しをお見舞いします。その中央線を跨いだ対比から、左側では普段通りの自分、右側は復讐をする自分を表しているように感じました。その中央線こそが、親友を無下にした社会へ復讐することへの誓いであり、またそれがトラウマでもあり、越えられない一線なのかと思わせます。
キャシーはサイコパスなのか

シラフなのに酔ったふりをして持ち帰られ、カウンターを決める。男たちは、去り際に口をそろえて「サイコパス」と言い残します。また、親友ニーナの実家に訪れた際、彼女の母親からは「過去に執着しすぎ、みんな前に進んでる」とも言われました。
確かにそうです、キャシーはこの復讐に執着しているように見えます。ポップに描かれているからこそ無意識に隠されている部分もあると思いますが、わざわざ知らない男たちへも、行動の過ちに対して制裁を加えるためにクラブに行ったり、バーに行ったりしています。これってやりすぎじゃない?なんて思いもあったりしますが、ただ、ニーナの母親との会話では、事件があった当日について「私がニーナと一緒に居たら…」と後悔の念を漏らしていました。それを踏まえるとキャシーの行動は、そういう男に対して仕返しをすることへの”執着”と言うよりも、自分が何もしてやれなかったことに対する親友への”償い”の意味合いの方がしっくりきます。
女性はうまくいっていない時ほど、自分を綺麗に「着飾る」と言われることもあります。服装、化粧、持ち物、作中のセットや美術品だって、キャシーが復讐をする時は決まってカラフルに仕上がっていました。それは心の闇を抱えている時だって同じ。キャシーの最後の姿だったナースもやりすぎな程カラフル。一方で、カフェで働く時やライアンとデートをしていた時は、至ってナチュラル。素でありたい自分がそこにいながらも、親友への”償い”のために、社会に代わって自分で制裁を下す。何でかって、誰も動いてくれないから。
ライアンは後半のシーンで、キャシーにこう言います。「君は過去に過ちを犯したことはないのか」
確かにそう、みんな過ちは犯してます。ただ、キャシーはそれの償いや社会の仕組みづくりなど、結局、事件のその後がなってない。そして、キャシーが生まれる。これは本当にサイコパスと言えるのでしょうか。
タイトルの意味は?

記事の中で度々触れていますが、『プロミシング・ヤング・ウーマン』は直訳すると「将来有望な若い女性」になります。
この言葉は一見、ポジティブです。字面を見たイメージだけであれば、成績優秀、人生における選択肢も沢山あり選ぶことが出来る立場にあるように思わせます。
しかし作中では、社会的地位、仕事、周囲の人間に守られる男性が描かれ、対になるようにキャシーの親友ニーナは被害に遭い大学を中退、自殺にまで追い込まれ、またキャシーは周囲に助けを求めても手を差し伸べてもらえず、黙認さえされる。
『プロミシング・ヤング・ウーマン』は、”将来を奪われた有望な女性”だったニーナを指すタイトルであると同時に、”自分の有望な将来を捨ててでも、親友の未来を背負い腐った社会と戦う”キャシーに対しても表現されているタイトルと思っています。
この作品のあらすじを読む前にタイトルだけを見た時には、ポジティブな作品と思っていました。作品を観てここまでの社会問題が浮き彫りになり、許容してきた世間に対する痛烈な程のアンチテーゼを食らいます。
もはやこれを「女性が」って限定するのもお門違いなのかもしれない。今作で描かれたのが”たまたま”女性であっただけで、実際は女性に限らない。今作の内容が実際に起きていることは過去の事件からみても間違いはないですが、「気づき」が重要で、また「その先」が最も重要なんだろう、と思わせてくれる作品です。

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