「主人公の感情たち、役割の割に感情を跨ぎ過ぎてないか?」
映画館を出た直後に放った言葉がこれだった。
『インサイド・ヘッド2』は、主人公のライリーが前作から成長した物語であるという前情報を持っていたにもかかわらず、前作を観ることなく本作を観に行ってしまった自分。ただ、この記事を書いている今も前作は観ていない。
一緒に観に行った人によると、前作ではヨロコビはいつでも楽観的、カナシミは何事にもネガティブ、イカリはよく爆発してたなど、それぞれの感情たちが独立した役割を表現していたとのこと。「そうだよな、それでこそ感情の役割がはっきりしてるよな」と納得。
一方、これは私が本作だけを観て直感的に思ったことではあるが、例えばヨロコビが何かを失敗したことに対して落ち込んだり、カナシミが勇ましさを携えて難題にチャレンジしたりなど、「それは他の感情のキャラクターが演じれば、ライリーの感情を表現できるのではないか?」とも思えるようなストーリーになっていた。
感情たちもライリーの成長に伴って、より複雑になっている、、、
「そうか、もしかすると、、、これが思春期というヤツなのか?」
「私は良い人」の違和感
人の欲求には、自己顕示欲というものもある。(映画には出てきません)
自己顕示欲とは、自分以外の周りの人間から認められたいという欲求のこと。本作では、「イイナ」という周りのことを羨ましがる感情がキャラクターとして登場しますが、自己顕示は、ある意味「イイナ」の先にあるような、羨ましい対象が周りの人間から認められているのであれば私もそうありたい、といった感情でもある。
作中では、ヨロコビが感情たちの主役といった構図で、良い思い出以外は全て記憶の片隅へ飛ばしまくっていた。ライリーの中には、思い出から出来あがる結晶があり、それがライリーの感情の幹のような表現がされている。その結晶はヨロコビの行動により、「私は良い人」と青白く綺麗に光っていたが、ヨロコビは、良い思い出しかないんだからいいじゃん!といったばりに、達成感のある表情を浮かべる。
「おいおい、自分で自分を”良い人”なんていうヤツに”良い人”なんているか?」
このセリフからそんな違和感を覚えながらも、現実にライリーは友達ふたりに気を遣って言いたい事を言えない、自分が抱えている想いも伝えられずにモヤモヤする。
「私は良い人」であることは、言葉だけで見聞きすると、世間一般では間違いなくポジティブですよね。なんてったって「良い人」なんだから。
でも、「良い人」である本人はどうなのか。
生きる上での必要な思い出とは
特に個人的な意見ですが、正直なところ、ヨロコビに飛ばしまくって欲しいくらい、嫌な思い出とか悲しい思い出は掘り起こしたくないですね。(笑)
だけど、人生には喜び以外にも悲しみや怒りなど、たくさんの経験を通じて様々な感情が入り混じった思い出や記憶が作られます。でもやっぱり、生きていく上でネガティブな感情なんていらない、なんて思ってヨロコビがしたようにポジティブな感情だけになってしまうと、全ての基準がポジティブになる、所謂ポジティブで居ることが当たり前になるんですよね。
例えば、光があるからこそ影があるように、ポジティブとネガティブ、喜びと悲しみも全てが表裏一体。
辛い、悲しい感情を持ち合わせているからこそ、楽しさや喜びをより大きく感じられる。逆においてもそれは言えますが、それはご愛嬌。
作中では、ヨロコビも感情の偏りがライリーの精神を不安定にしていることに気付き、感情たちが団結をすることでライリーは「良い人」ではなく、自分自身を取り戻す。つまり、「ありのままの自分で居ることが大事」ってことをストレートに伝えてくれた。
ライリーの頭の中で感情たちが奮闘する姿は、漫画の原作を基に2015年に日本で公開された映画『脳内ポイズンベリー』になんとなく構造は似てはいた。が、『脳内ポイズンベリー』は様々な思考たちが会議をした結果を主人公に指令するのに対し、本作はライリーが出くわす場面に対して感情たちが入れ替わりながら主導権を握っていく。どちらも「自分の頭の中もこんな感じなのか」とイメージを膨らませると、どうしてもこの映画が他人事ではなくなるような感覚にさせてくれるが、『インサイド・ヘッド2』に限って言えば、ライリーの成長だけではなく、感情たちの成長もより強く感じられる面白みがある。
そんな感情の共存をピクサーはキャラクターに具現化して、老若男女が没頭できるような作品に仕上げています。プロですね。
本作を振り返ってみて、自分で自分にこう伝えたい。
「ああ、そうか、思春期はお前たちが暴れていたんだな」
あの頃の私の中では、ハズカシが主導権を握っていたに違いない。
\ピクサー観るならDisney+!/
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